伊丹潤「Untitled」
建築家として知られる伊丹潤の作品だが、この作品を見て少し面を喰ってしまう人もいるのではないだろうか。建築家然とした表情が作品から一切感じないのである。
ル・コルビジェ、フランク・ロイド・ライト、磯崎新、石山修武······。他にも意外と画家としても知られる建築家は多いが、建築図面のように直線と曲線を用いて現れる形を模索したり、空間を二次元的に表現しようと試むなど、作風は多岐にわたるにせよやはり建築家として画業にも向き合っている印象を受ける。一つのテーマに対して様々な表現方法を媒介して表現しようとする彼らには透徹した意図を感じるが、果たして伊丹にはそのような建築と相通ずる一貫したテーマ、問題意識は無かったのだろうか。
伊丹潤は在日韓国人2世として日本に生まれている。差別が色濃く残る時代に生まれた伊丹は、日本では韓国人、韓国では日本人だと言われ、自分がどこにも属さない異邦人のように感じ苦悩した。そのような境遇から鑑みると、自分のルーツを追い求めようとするのは自然なことなのかもしれない。伊丹は李朝民画に傾倒するようになる。李朝民画とは芸術的鑑賞をされる対象としてではなく、庶民が自分の生活を彩るために発展した絵画である。そのような意図を持つため、何か決まった約束事のようなものも無く自由に感性が表現され、その土地の風土に養われた民族の特性が素直に反映されている。伊丹は建築家として、その土地の風景と響き合うような建物を作りたいと考えていたが、それは少なからず李朝民画に影響されたものだろう。彼はおそらく絶対的な美を追い求めようとする西洋的美的感覚の基ではなく、自然主体の考えの基、あるがままの美を見出し表現しようとしたのだ。
この作品は土色がかった白を単色でキャンバスに塗りたくり、その上からちょんちょんと跡を付けるように作られている。簡素な表現ながら、少しユーモラスで動きを感じる。この作品は李朝民画のように素直に自身、もしくは自身の土着的背景を表現しようという試みなのだろうが、純然たる日本人とも韓国人ともつかぬ異邦人としての彼の感性は素直に表現しようとも希少性を帯び、図らずも一つの芸術品としての価値を得ているのだ。